わりと気に入っていた代田橋を離れ、同棲生活をスタートするために大田区の久が原に引っ越しをした。正式な住まいは西嶺町という地名で、東急池上線の久が原駅と東急多摩川線の鵜の木駅までそれぞれ徒歩7分の場所だった。2階立ての鉄骨アパートの2階の角部屋。1LDK、45平米、家賃は管理費込みで11万円くらいだった記憶がある。
この部屋に決める以前にもいろいろな物件を探していたが、自然の多い多摩川まで徒歩で行けることや、非常に閑静な住宅街であったことが気に入り、久が原のアパートに決めた。隣にはお寺があり、大晦日には除夜の鐘がカンカン鳴る。それもよかった。
このときの仕事はフリーでもらっていた業務で、自宅で淡々とこなしていた。同棲相手は日中が仕事のため朝家を出て夜に帰ってくるというパターンだったので、私がだいたいの家事をこなしていた。ただ、徐々に私の仕事が減り、仕事をしない時間が増えていった。また、ちょうどコロナ禍の時期に入ったこともあり、2人で外に出ることもほとんどなく、休日も家で過ごすことが多かった。
それから、この頃私は脳腫瘍摘出の手術を控えていた。というのも代田橋の家に住んでいた頃、外食中に人生で初めて全身痙攣の重度のてんかん発作(一時的に意識不明になる発作)が起こり、MRIの結果、脳腫瘍が見つかったのだ。その後も同じ発作が定期的に起きていて(運良くたまたま周りに誰かがいて助けてもらっていた)、発作が起きるたびにMRIを撮っていたのだが、あるタイミングで少し腫瘍が大きくなっていたこともあり、主治医と相談して早めに手術で摘出しましょう、と。
手術後も1年間化学療法をすることになり、その1年は基本的に自宅か病院にいる時間が多かったが、秋葉原にもよく行っていた。通院していた大学病院はお茶の水にあり、徒歩10分くらいで秋葉原まで行けたのだ。千石電商や秋月電子に寄って電子パーツを眺めて、特に必要でもないのにDCモーターを買ったり。いい気分転換になっていたと思う。
療養中はほぼ仕事がなかったので、食っていけるか心配であった。1年間の化学療法が終わり、よし!仕事するか!という気持ちが芽生えたものの、仕事がない。私はフリーランスなので仕事の依頼がないと収入がないのだ。そもそも営業が下手(苦手)な自分はフリーランスに向いていないのかもなともこの頃思っていた。
そこで、療養直後だったこともあり、リハビリがてらにアルバイトを始めた。アルバイト先は秋葉原にある自作キーボード専門のお店、遊舎工房であった。かねてから気にはなっていたお店だったが、たまたま求人が出ていたのでエントリーして採用してもらい、平日4日程度の勤務をすることとなった。久が原の家から秋葉原のアルバイト先までは片道50分くらいであったが、通勤をしている感覚が久々に発生したことは嬉しかった。久々に社会の一員になった気分というか。
ただ、さすがにアルバイトだけでは生活費が足りなかったので、少々怯えながら働いていたと思う。それから、お付き合いしていた彼女ともこの頃お別れしたため、ますます生活することへの不安が発生していた。だが、色々と自分自身を見つめ直すような時間だけはかなりあったので、アルバイトのない日はノートにいろんなことを書き殴っていた。そして気づいたのは、自分は東京に住むことにこだわらなくてもいいのでは、ということであった。
そこから、東京以外での仕事を探し始めた。特に、アカデミックの現場には興味があったので、自身の専門性(コンピュテーショナルデザイン)を活かせて、かつ研究のできる場所をリサーチしていた。すると、岐阜県の大垣市にあるIAMAS(情報科学芸術大学院大学)で、技術支援専門職の公募を見つけた。IAMASはメディア表現の研究を行う大学院で、学生数は1学年20人弱とかなり少ない。が、講師陣はおよそ20人程度という構成で、最新の科学技術や文化を吸収しながら、先端的な芸術表現の教育を行っている教育機関であった。
そしてあれよあれよでIAMASで働くことになった。
さぁ、引っ越しである。4月から働くことになっていたのだが、内定をもらったのは2月末頃だったので、わりと慌ただしかった。
東京には12年間いた。東京という場所から離れることよりも、東京でできた多くの友人たちと会う機会が少なくなることへの寂しさは当時かなりあったように思う。そんなこんなで次は岐阜県の大垣市へ。